お茶屋と呼ばれる店舗があり、旅館のような構造をしている。京都花街組合連合会に加盟する花街におけるお茶屋と異なり、一部では性風俗も扱っていた。
もともとは五条橋下(五条新地)、六条新地、七条新地という隣接する複数の遊廓であったが、これらが大正時代に合併し、長らく七条新地の名で親しまれた。かつてより芸妓と娼妓が混在する花街であり、戦後はいわゆる赤線となり、営業を続けていた。
1958年(昭和33年)の売春防止法施行後、五条楽園と名を変えた。当時はお茶屋84軒、置屋16軒、旅館15軒、バー・スタンド19軒で芸妓100人程度を擁していたという[1]。
現状は、五条楽園歌舞練場を中心に、一般民家に混ざってお茶屋15軒、置屋4軒が残っている程度である[2]。大正から昭和初期に建築された、独特な唐破風屋根が映える京町家も現存する。
Wikipedia より
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